第01話   吾郎作の竿   平成16年05月15日  

昭和601222日付の地元紙荘内日報の根上吾郎氏(市内釣具店経営)の連載コラム「庄内竿夜話・手塩にかける竿」の中にこう書かれている。

ある日男鹿市から二人の青年がやって来た。
その二人は市内の本間美術館で古い庄内竿を見学し、研究員の佐藤七郎氏から根上釣具を勧められ、店に入って来て熱心に竿棚にあった白竹の硬めの2間余りの竿を振って見ていたと書いている。



「欲しいですか?」「ハイ」20代の青年が庄内竿を欲しがるのは珍しい。
「良かったら、その竿をお上げします。お金は要りません。その代わり大切に使ってください。」・・・・・「その代わり去年作ったばかりで、まだ23回しか火が入ってはいません。使えば必ず曲がります。本当にこの竿が完成するのは何年もかかります。いくら乱暴に使っても良いから曲がったら毎年、年の内に持って来て下さい。曲がらなくなるまで何回でもタメますから」とくれぐれも念を押した。



その青年は毎年竿を持って来る度に秋田の銘酒を持参してくれて、その都度ありがたくご馳走になったとも書いている。そして白竹の竹質の固いその竿が、4年過ぎた頃にヤット曲がらなくなった。5年目からは竿を矯めに来ていない。その最後の時に吾郎作と竿に刻み、竿の使い方が書かれた手紙を手渡した。やはり庄内竿は、昔云われていたようにカチッと絞まるまで5年もの歳月を要する。昔の鶴岡の竿師は手元において竿をカチッと絞まってから、売った方が多かったが、最近ではそんな悠長な事が出来ないのが実情である。余程の事がない限り秋採って来たものを翌春、若しくは翌々春に販売する。そしてその中で自信のある極く一部の竿に自分の銘を刻む竿師が居る。その青年に渡った竿はきっと自信作だったに違いない。

今年の5月の初めに男鹿市のS氏よりメールを貰った。
その方は庄内のA町の出身で縁があり、現在男鹿市に勤務している釣師である。小生の拙いコラムを読んで頂いて激励のメールを戴いた。そして吾郎作と書いてある竿を今もお持ちとの事である。ひょっとしたら昭和601222日付のコラムに出ていた人と同一人物ではないかと思い問い合わせて見た。

本間美術館の帰り4時間ばかり竿作りの話を聞いていたが、庄内竿が余りにも高価なので買うのに二の足を踏んでいた。そうして根上釣具の次男国生さんと高校が同期、更に母親同士が八幡町出身という事もあり、竿をあげると云われ有難く二間一尺の庄内竿を頂いて帰ったと云う。毎年矯める為に酒田まで来ていたが、もうノサなくとも良い(矯めなくとも良い)と云われ竿の使い方を書いた手紙を戴いた。ただ、その時酒を持参したかはどうかは覚えていないと云う。メールによれば90%位は新聞のコラムの通りである。

何かの縁でこんな事件が起きた。自分がコラムを書いていなかったら、根上吾郎氏の新聞のコラムの切抜きを読んでいなかったら、そしてS氏からのメールを貰ってなかったらこの事実は永久に分からなかったであろうと思う。こんな事があったりしてコラムを書き続けると云う事が自分なりに意味を持つと感ぜられ俄然面白くなった。

100篇だけコラムに挑戦し、庄内の釣の事を聞いたり、思いついたりした事などを、その都度拙い文章ながらも、書いて行こうと思えるような気になった。